戦争に関する公式見解
1997年11月25日 日本長老教会大会決議
序
旧日本基督長老教会は、1992年度大会において旧東部中会から提起された戦争に関する質問状をめぐる議題を審議した。質問状は次の四点からなっていた。
- ウェストミンスター信仰告白第23章の解釈の問題
- 日本国憲法にあらわされた平和主義の理念とウェストミンスター信仰告白第23章との関係の問題
- 日本がかつて犯した侵略戦争の歴史の反省
- 靖国神社国営化との関連
旧日本基督長老教会大会は、この件に関する見解を明らかにするため、大会の靖国問題対策委員会を中心として、「戦争に関する公式見解特別委員会」を設置し、委員を任命した。その後、同委員会は、現日本長老教会へと導かれつつあった旧日本福音長老教会からオブザーバーを迎えて作業を進めた。1993年5月の日本長老教会設立後は、改めて特別委員会を組織し、その提出した文案が1994年11月に「委員会見解」として認められたが、大会の公式見解とすべく、1995年11月、新特別委員会が組織され、以下に掲げるような「戦争に関する公式見解」案を作成した。
質問状からも明かなように、特別委員会ならびに新特別委員会に検討を委ねられた課題は極めて大きいものである。それは、①日本長老教会の教理基準に見る戦争に対する基本的姿勢、②戦後の日本キリスト教史にとって多大な意義を持つ日本国憲法における平和主義との関係、③日本の戦争責任の問題および今日のキリスト教会にとって最重要課題とも言える靖国神社国営化問題との関係、等を明らかにするものであったからである。
1.ウェストミンスター信仰告白第23章の解釈
ウェストミンスター信仰告白(以下、特に必要がない限り信仰告白と略記)第23章第2節(以下23:2と略記)には、いわゆる「合法的戦争」についての次のような言及がある。
「キリスト者が為政者の職務に召されるとき、それを受け入れ果たすことは合法的である。その職務の遂行にあたっては、各国の健全な法律に従い、特に敬虔と正義と平和の維持を旨とすべきである。そこで、この目的のために、新約のもとにある今でも、正しく、またやむをえない場合には、合法的に戦争を行うこともありうる。」(1)
この表現の背景には、① 信仰告白が「信仰と生活の基準」(1:2)とする旧・新約聖書全体から導き出された聖書解釈の伝統、② 長老教会が16世紀の宗教改革以来培ってきた教理体系の伝統、③ さらに、17世紀のイングランドにおける宗教改革という歴史的状況がある。それゆえ、この表現の解釈にあたっては、少なくとも以上の諸要素を考慮した上で適正な解釈を施し、さらに、これを告白する今日の日本長老教会にとっての意義を明らかにしなければならない。
(1)聖書解釈の伝統
ウェストミンスター信仰告白が継承した聖書解釈の伝統は、旧・新約聖書全体を唯一の神による、一貫した啓示として理解するものであり、戦争に関しても聖書全体がその問題に光を投ずる。この立場においては、戦争に関する旧約と新約の立場を「対立」や「優劣」の関係におき、一者を選んで他者を退けたり、一者が他者により無効にされたとして否定することはない。
たとえば、① 旧約を「聖絶」を命じる好戦的な神、新約をキリストが唱えた非暴力、平和主義の神とみなすこと、② 旧約を用いて、今日キリスト者が関与する戦争を一括して是認すること、③ 旧約聖書に記される戦争を霊的にのみ捉えたり、あるいは、そうでなくとも、それらは新約の平和主義により無効とされたとする等の行き過ぎは正しくない。
聖書、特に、旧約聖書に記される多種多様な戦争が、現代の信仰者に直接的な形で何かを命令しているとは理解しないが、しかし、それらが、時代を越えた今日における戦争を考える上でも、さまざまな示唆を与えているものと受けとめる。戦争のもつ多局面の中でも、現代とのかかわりでは、特に次のような点を挙げることができよう。
旧約聖書における「聖絶」*は、神の救いに関する摂理の中で、罪の巣窟であるカナンの先住民に対する審判として神ご自身が命じられたものであり、その罪の根底に偶像礼拝があった。(2) しかし、聖絶は、しばしば誤解されているように、カナンの住民に対してのみ適用されたわけではない。聖絶の規定は、選びの民イスラエルにも向けられており、(3) 実際、度重なる偶像礼拝に対して聖絶が適用されたと見ることができる。(4)特に、現代とのかかわりで指摘されるべきことは、カナン占領という事件は、救いの歴史の展開において一度限り起こった出来事であり、特別啓示の時代が終わった聖書時代以後においては、繰り返されることはないと見るべきであろう。従って、今日、仮に「合法的戦争」なるものが考えられる場合でも、その戦争が神より命じられたということが絶対的な形で啓示されることはない。それはむしろ、キリスト者の信仰による判断に属する事柄である。(5)
旧・新両約聖書にみられる戦争は、一方で神の義なる性格と関連して、それが罪に対する刑罰という形にせよ、罪そのものから生まれたものであるにせよ、いつも人間の罪、あるいは、罪深さとかかわりをもっている。他方、神の愛と隣人愛との関連においては、平和を創り出すことと、敵を愛することとが神の民に求められている。このような観点からは、世の終わりまで戦争がなくならないということは当然の帰結であるが、しかし、同時に和解と平和への努力も等しく世の終わりまで続けられなければならないと言える。
(2)教理体系の伝統
ウェストミンスター信仰告白はリフォームドの教理体系を継承している。このことは、二つのことを意味する。一つには、プロテスタント主流派の一翼を担うリフォームド教会がその神学において、アウグスティヌスやトマス・アクイナスなどによって展開された「義戦論」*を継承したことであり、もう一つは、戦争の問題が、リフォームド神学体系における創造論、堕罪論、人間論、摂理論、国家・為政者論や社会・文化に関する教え、キリスト教倫理、終末論などとの関連で体系的に論じられうるということである。
たとえば、創造における秩序と堕罪の影響に関する教理に従えば、創造のみわざに内在する自然、人間、社会の秩序との関連で、とりわけ、社会秩序の最小単位である男と女との関係の延長線上に位置づけられる国家は、堕罪の影響によりその原初の秩序は損なわれたとはいえ、全く失われたのではないため、基本的には神の世界支配の中に意義づけられるのである(23:1参照)。しかし他方、国家は歴史的には堕罪後の産物でもあり、ちょうど人間の争いが心の憎しみに深淵をもつように、国家はしばしば平和や正義という大義名分なくして戦争を行うことも現実としてあった。このように、国家を神にも、また罪にも仕えうるものと位置づける立場においては、すべての戦争を肯定する立場も、また、否定する立場も妥当とは言えない。
(3)ウェストミンスター信仰告白の時代的背景
ウェストミンスター信仰告白が作成された17世紀のイングランドでは、ヨーロッパ中世の「キリスト教社会」がいまだ形を残しており、国家も為政者もキリスト教的であることを建前としており、戦争もしばしばキリスト教の名目において行われるという現実があった。しかし、信仰告白の時代的背景には戦争に対する楽観的、好戦的見解とは程遠い状況があった。ちなみに、信仰告白がイングランド議会で承認された1648年は、ヨーロッパ大陸ではプロテスタントとカトリック両勢力が対決した三十年戦争*が、両勢力の手詰まり状態の中で、ウェストファリア条約をもって終焉した歴史的な年であり、そこには戦争を美化する風潮などは微塵もなく、勝者なしで荒廃のみが残り、厭戦気分が高まっていた。
当のイングランドは、清教徒の革命勢力と王党・国教派勢力との戦争の渦中にあり、信仰告白を作成していたウェストミンスター会議にとって、戦争は単に理論上のことではなく、死活問題であった。その上、ヨーロッパ大陸の宗教改革において平和主義・非戦論を展開した再洗礼派運動はイングランドではほとんど地歩を得ることなく、思想的な影響も弱かったため、ウェストミンスター会議を支配したのは戦争の現実を直視する態度であった。
(4)信仰告白の解釈
ウェストミンスター信仰告白23:2のテキストを読む限り、解釈が分かれるような問題はなく、その意味するところは自明であると言ってよい。
まず、この条項は、「キリスト者が、為政者の職務に召されるとき」とあるように、厳密に言うならば、為政者または国家一般への言及でも、また、教会全体への言及でもなく、教会の一部である狭義のキリスト者為政者への限定的言及である。その上、彼らキリスト者の召命が「各国の健全な法律に従い」あるいは「特に敬虔と正義と平和の維持を旨とすべきである」と規定されているように、キリスト者の社会倫理の領域での責任とされている。さらに、問題の核心である「新約のもとにある今でも……合法的に戦争を行うこともありうる」という文章においても、「正しく、またやむをえない場合には」との限定表現が付されている。
このように幾重にも限定される状況の中でのみ、合法的戦争(6)が積極的にではなく消極的に許容されているに過ぎない。そこに見られるのは、戦争の美化や安易な容認ではなく、あくまでも戦争の現実を直視する視点である。
(5)今日的課題
最後に、歴史、民族、国家を異にする今日の日本においてウェストミンスター信仰告白を受け入れている日本長老教会は、どのように23:2を解釈すべきか、という課題が残る。
前項で述べたように、信仰告白23:2の表現は、為政者に召されたキリスト者に限定される。とはいえ、そこで問われているのは、ほかならぬキリスト者の社会倫理なのであるから、今日、日本長老教会として個々の戦争に対する態度を明らかにすることは信仰告白の精神に反するものではない。
このような課題においては、中世的な「キリスト教社会」とは根本的に性格を異にする世俗化された近代国家の理解、そのような「主権在民」の政治形態を持つ国家において、為政者として召された場合に限らず、すべてのキリスト者が政治的使命を果たしていく場合のその責任の取り方、などを十分考慮の上、古い歴史と新しい現実との安易な対比や問題の困難さを回避するための妥協を排し、むしろ信仰の告白と実践を真摯に探求する、長老教会の伝統ある姿勢を保つべきである。
とりわけ、近代以後の戦争の性格は、それまでの戦争と比較して、その性格を大きく変えた。戦争原因を人間の心のレベルにまで下げて論ずれば、古代の戦争も現代の戦争も人間の原罪に基づく殺し合いに帰せられ、本質的に変わってないという議論は正しい。しかし、戦争結果を見つめるとき、現代戦争*には質的にも量的にも極端な違いがある。それは人間社会の荒廃と地球環境悪化をもたらしており、互いに生き残りを目指しながら、目的に反し、人類全体を滅亡に導きかねない。こうした変化は、戦争観の再検討をうながさずにはいないし、戦争に関しての各国の法律と国際法にも根本的な見直しを迫っている。
今日がそのような時代であるので、信仰告白23:2の参照聖句としてテモテ第一の手紙 2:2が選ばれていることの意義は一層意大きい。そこでは、キリスト者が、自らの信仰告白に忠実な判断と行動を探り求め、為政者のために「願い、祈り、とりなし、感謝」をささげ、如何なる戦争も未然にに防ぐ努力をする義務のあることが示されている。(7)
2.ウェストミンスター信仰告白23章と日本国憲法に表わされた平和主義の理念との関係
日本においてウェストミンスター信仰告白に基づいて教会を建てあげる日本長老教会としては、まず、いわゆる「合法的戦争」を限定的ではあるが認める信仰告白23章と日本国憲法の平和主義との基本的関係を確認する必要がある。その上で、日本国憲法の歴史的意義、とりわけ第九条の重要性を明かにし、信仰告白との調和を探りつつ、戦争の問題に関する日本長老教会の今日的使命を明かにすることが求められる。
(1)両者の基本的関係
信仰共同体としての日本長老教会は、「神のみ前に」何を信じ、何を実践するかを明らかにするところのウェストミンスター信仰告白という基準を持つ。このことは、日本長老教会がその信仰と生活を「この世に対して」どのように証しするかという課題へと発展する。前者は、いわば「神と教会」という縦の関係に基づく教理の領域であり、後者は「教会と世界」という横の関係におけるキリスト教倫理の領域である。この二つの関係において、縦の関係を示す信仰告白が横の関係に対し優位に立つことは言うまでもない。そして、この後者の領域の一端として、日本国憲法との取り組みという教会の課題が位置づけられる。それを前者の領域から分離することなく、この国において信仰と生活の統合をもって証しする日本長老教会の使命の重要な要素とみなすことは、信仰告白の精神にふさわしいものと言える。
(2)日本国憲法の平和主義
ウェストミンスター信仰告白23:2は、キリスト者が為政者として召命を受けるという限定的状況においてであるが、その為政者が「各国の健全な法律に従い」務めを果たすものとしている。日本長老教会としても、日本国憲法成立の歴史的経緯と意義とに照らして、その平和主義と戦争放棄の理念に関して日本国憲法を「健全な法律」として一般恩恵に位置づけることができる。
日本長老教会は、近代国家・日本が富国強兵政策から植民地主義、軍国主義、侵略戦争への道を突き進む中で、国民に多大の犠牲と悲惨をもたらし、アジアの民衆に対する重大な罪を犯した事実を告白する。それゆえ、敗戦を神の審判として、また新しい日本国憲法を神の恵みとして受けとめ、過去の反省と平和に対する決意を新たにすることが、歴史の教訓を生かす道であると確信する。
日本国憲法はその前文において、「日本国民は、恒久平和を念願し、……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」として平和主義をうたい(8)、その平和主義の内容として、第九条において「日本国民は……国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と唱える。日本長老教会は、戦争と平和の問題に関して、憲法のこの精神が日本の戦後史の原点であることを強く認識する。この精神が、最近、盛んになりつつある「憲法改正」論議の中で危機に直面している。このような状況の中で、日本長老教会がこの歴史的原点を踏まえて祈り、また行動することの信仰告白的意義は大きい。
(3)信仰告白と憲法
ウェストミンスター信仰告白は、日本国憲法が唱える平和主義を否定するものではない。ましてや、神の創造のみわざである世界の破壊を意味する戦争や、「神のかたち」に創られた人間の尊厳性を踏みにじるような戦争を肯定するものではない。信仰告白は、為政者に召されたキリスト者にとって「合法的戦争」はありうるとはするものの、この為政者がその務めにあたっては「敬虔と正義と平和の維持を旨とすべきである」ことを強調している。
このように、信仰告白の基本理念が敬虔と正義を促進する秩序と平和の維持にあることを確認する必要がある。信仰告白として、戦争に対する立場は極めて消極的なものであると言える。この信仰告白自体が持つ平和精神の線上に、実は日本国憲法もあることを見逃してはならない。「合法的に戦争を行うこともありうる」との字句のみを見て、この告白と「戦争の放棄」をうたった憲法とは相いれないものとしてはならない。平和憲法は一つの決断なのである。戦争を平和の手段として選び取ることも場合によってはありうると認めつつ、「あり得はするがあえて選び取らない」という選択の道も、つねに開かれている。戦後日本が憲法において「戦争の放棄」を決意したのは、平和を追求する真剣な願いからであって、そのために「戦力の不保持」と「交戦権の否認」をもあえて選択した(9)。この平和主義は信仰告白の精神に合致するものである。日本長老教会はこの決断が、単なる理想主義からでなく、戦争の悲惨さを歴史から学んだ国民の反省と決意を伴う現実的で自主的な選択であったことを認め、そこに神の摂理と知恵とを見るのである。
すなわち、日本国憲法の戦争放棄の決断を、かつての日本が犯してきた侵略戦争の罪の悔い改めとして、また平和への新しい決意の表明として、主体的に受けとめ続けることこそが、日本長老教会の信仰告白にかなうあり方であると考える。
3.侵略戦争加担の歴史の反省と靖国神社問題
日本のキリスト教会の侵略戦争加担は明白な歴史的事実である。日本がかつてアジア諸国を侵略し、二千万人もの人々を殺傷するに至るといった恐るべき戦争を行った時、教会はそれを阻止し得なかったばかりか、それを容認し、それに参加し、推進さえした事実が、教会の歴史として残っている。
日本長老教会の前身である旧日本基督長老教会および旧日本福音長老教会はともに第二次大戦後に設立をみた教会であるが、民族としての連帯性、また神の民としての連帯性のゆえに、個人としても、教会としても、過去の歴史に対して責任を持つものである。
しかしながら、過去の戦争とその責任に関する日本人の意識は風化してきている。戦争体験のない世代の増加も相まって、戦争に肯定的な風潮さえ生まれつつある。侵略の被害を受けたアジア諸国では、最近の従軍慰安婦(軍事的性奴隷*)問題を見てもわかるように、日本の侵略行為、戦争犯罪行為*は決して忘れられていない。今こそ、日本長老教会としても過去の罪を悔い改め、二度と日本が侵略を犯すことのないよう、平和への決意を新たにしなければならない。
われわれは、特に靖国神社をめぐる動きに注目する。以下に述べるように、靖国神社とその国営化の動き、天皇・首相の公式参拝、閣僚・国会議員の集団参拝などがアジアの国の人々を刺激し、心ある日本国民を憂えさせており、これに無関心でいることは許されない。侵略戦争の責任をアジア諸国に負うと公言する一方で、靖国神社の国営化の動きを肯定することはできないからである。
戦後新生した日本の進路を大きく復古的方向に修正しつつあるこの動きにキリスト教会は危機感を抱き、これを戦後史における最重要課題として取り組みつつある。旧日本基督長老教会においても、『バアルに膝を屈めぬ者』(1~4号)を公にし問題性を訴えてきた。
靖国神社国営化問題*はキリスト教会にとって偶像礼拝や信教の自由に関する問題であるばかりでなく、戦争や天皇制と奥深いところで結びつく、精神的、思想的、霊的偶像礼拝となる危険性を内包するものである。戦争をめぐる曖昧で、流動的な状況が現存する中で、日本長老教会としても、この問題の本質を見極めて教会の姿勢を正すことが必要である。
(1)教会と国家
一般に、長老教会が継承したプロテスタントの伝統では、教会と国家との関係において、両者が共に神の支配の下に位置づけられる。教会は、その預言者的務めとして国家のあり方を監視し、国家が神の支配から明らかに逸脱したり、教会を不当に迫害する場合には、国家権力への抵抗すら可能であるとする。
この視点からすれば、日本におけるプロテスタント教会は、その初期の歴史において、預言者としての使命を果たすことができなかった。近代日本が疑似宗教的な天皇制を機軸、国家神道を広報機関、教育勅語を教育規範として国民の思想と宗教の統制を強めつつあった時、明治期のキリスト教会はそこに内在する危険性を十分に見抜くことができなかった。むしろ、教会は神道を中心とし仏教とキリスト教を国家体制に組み込もうとした政府主導の「三教会同」*に参加し、日本においてキリスト教が市民権を得たものと、この政策を歓迎した。教育勅語との関係で起きたいわゆる「内村鑑三『不敬』事件」*ですら、個人倫理の分野での抵抗とは位置づけられたものの、教会の告白運動には発展せず、むしろ教会指導者層の中には内村を批判・非難の対象とする者まで出るに至った。この問題は「教育と宗教の衝突」論争*に発展し大論争が数年にわたり行われたが、思想的な決着がつかぬまま対立が潜在化し、以後、時々政治的思想的な対立として顕在化を繰り返している。
以来、日本のキリスト教は次第に体制順応型に変わっていった。キリスト者による神社参拝という妥協や宗教団体法による、より徹底した国家の教会統制を許し、結果的に魂を国家に売り渡し、戦争協力に走り、敗戦を迎えるに至った。しかし、教会の責任は敗戦をもって終わったのではない。
(2)宣教と社会関与
教会の使命である福音宣教には社会との関わりの側面が含まれる。みことばのダイナミックな宣教は自ずと教会の社会関与へと発展し、また、みことばに基づいた社会関与は教会の宣教を前進させる。そして、教会の宣教が、このような広がりをもって展開されるためには、みことばの厳格な研鑽と適用のみならず、急速に移り変わる世界・社会情勢を的確に把握し、みことばに基づいて分析・総合する不断の努力が必要である。
戦争の問題に関して言うならば、キリスト教会はこの側面に十分に取り組んできたとは言い難い。戦時、天皇制国家主義の壁の中で、教会は戦争の問題について概ね沈黙せざるをえなかった。戦後、平和憲法を享受する中で、教会は戦争を対岸の火事のように遠い存在とするか、専守防衛を旨とする自衛隊であれば心配ないとする逃避を繰り返したのではなかったか。その結果、日本はアジアで最大級の軍隊である自衛隊*を持つ軍事大国となった。この現実を前にしながら、教会は国際協力の名目で支出され、実質は戦争遂行に充てられた資金の問題、自衛隊と軍事費の対国家予算比問題、自衛隊や大規模軍事産業の従業員とその家族の問題などを、キリスト教の観点からどれだけ取り組んできたであろうか。
また、現時点において最も憂慮されることは、教会の社会関与の働きが、戦争をめぐって意図的に創り出されている時代の思想や国民の意向などに左右され、押し流されてしまう危険性であろう。とりわけ、一部の知識人・思想家と呼ばれる人々の無節操振りは目に余るものがあり、軍国主義から民主主義への華麗な転身を果たした者の中には、経済大国、軍事大国への途上において、冷戦構造の崩壊、湾岸戦争後の世界情勢のなかでの軍事貢献を説く者の数が増えつつある。
キリスト教会もまたこのような時代の波を被っていないか、真剣な自己吟味が求められる。過去の歴史への反省を欠く者には、また、将来も無い事を銘記し、このような思想における偶像礼拝を教会に導入させないよう監視が必要である。
(3)靖国神社法案
靖国神社法案は1969年に国会に上程されて以来、5回の提出・廃案を繰り返し、ついには廃案となった幻の法案である。この法案は宗教法人である靖国神社*を再び国営化し、これを突破口として過去の戦争の美化、憲法の信教の自由および政教分離原則を骨抜きにすること、国家神道の復興などを真の狙いとするものであった。
靖国神社は、日本が近代国家へと転ずる契機となった明治維新において天皇を擁立して勝者となった官軍の戦死者の慰霊に起源を発するものである。その後の歴史において、日本が富国強兵・植民地主義を掲げて、日清・日露・日中・太平洋戦争*を遂行する中で、軍国主義の支柱の役割を担った。しかし、敗戦を機に古い日本を清算し新生した日本においても、戦時中の戦死者、戦後に戦犯*として処刑されたものなど併せて230万人以上を英霊*と称して合祀し続けている。
また、靖国神社の地方支社である各県の護国神社*には殉職自衛官が合祀されつつある。人が死んで神となるという日本的精神風土であるとはいえ、国のために死んだ者を特別な神格、英霊とみなすことは、キリスト教会から見れば、最も危険な戦争美化および偶像礼拝と言わなければならない。
(4)天皇制と戦争
靖国神社国営化問題の最も奥深い内陣に天皇制がある。この法案推進派の最終的な狙いは、首相・閣僚や国会議員の靖国神社参拝にとどまらず、天皇による公式参拝*である。このことから、天皇制、戦争、靖国神社国営化が精神的構造上一体であり、密接不可分であることが露呈した。そして、天皇制を機軸とした日本が神格天皇の軍隊により侵略戦争を行い、また、キリスト教会も戦争遂行の一翼を担ったことは歴史的事実である。キリスト教会は、自らの戦争責任を問うのみならず、今日でも日本人やアジアの人々の中に天皇の戦争責任問題が未清算との声が絶えないことを忘れてはならない。
戦後、確かに平和主義と戦争放棄を唱える新憲法の下で象徴天皇制*が出発した。その憲法にも、国家体制規定が無いという異例な状況で象徴天皇制と民主主義が並記されていること、「象徴」という曖昧な表現であることなど、解釈上の問題を残している。また、天皇との関わりでの民主主義の意義についても、今日でも曖昧さは顕著にみられる。例えば、昭和天皇は、1977年の那須談話の中で、敗戦翌年のいわゆる「人間宣言」*に触れ、「あの宣言の第一の目的は、御誓文でした。神格(否定)とかは二の問題」として、戦後の民主主義のルーツが明治天皇の五箇条の御誓文*・「おぼしめし」*にあるとした。さらに、憲法の唱える民主主義や平和主義が空洞化する中で、今日の憲法改正論議が憲法の天皇条項(第1~8条)にまで及ぼうとしていることは極めて憂慮すべきである。
(5)国際貢献と靖国神社
国際化時代における日本の貢献が重要な課題とされて久しい。国連平和維持活動(PKO)協力法*の成立によって自衛隊の海外派遣が始まり、これを契機として、いまや、軍事貢献の進展に歯止めがかけられない状況となりつつある。国際貢献という大義名分の下に、憲法の平和主義の精神の空洞化のみならず、その文字までが曲げられようとし、具体的に第九条を対象とした憲法改正論議が横行している。こうした憲法と安保体制(ガイドライン)の見直しをめぐる急激な展開に、国民の多くは疑問と不安を抱いている。さらにまた、軍事貢献に関わる活動で自衛官などが殉職した場合、靖国神社に合祀される可能性が極めて高いことも、深刻な問題である。
こうした状況の中で、日本長老教会としては、軍事的国際貢献が孕む政治的危険性を訴えるとともに、憲法の平和主義の原則に立った日本の非軍事的国際貢献の必要性をも訴え、民間レベルや宗教団体との協力などを通しての平和的国際貢献への参加を積極的に推進して行きたい。
注
(1)この訳文は新委員会による翻訳である。原文は以下のとおりである。
”It is lawful for Christians to accept and execute the office of a magistrate, when called thereunto: in the managing whereof, as they ought especially to maintain piety, justice, and peace, according to the wholesome laws of each commonwealth; so, for that end, they may lawfully, now under the New Testament, wage war upon just and necessary occasions.”
日本基督改革派教会信条翻訳委員会訳(1964)では、以下のように訳されている。
「キリスト者が為政者の職務に召されるとき、それを受け入れ果たすことは合法的であり、その職務を遂行するにあたって、各国の健全な法律に従って彼らは特に敬虔と正義と平和を維持すべきであるので、この目的のために、新約のもとにある今でも、正しい、また止むをえない場合には、合法的に戦争を行うこともありうる。」
本文に掲げた日本語訳は、本条項の強調点が、格別、合法的戦争にあるわけではないとの理解に立つものである。また、D.F. Kelly, H.W. McClure III and P. Rollinson, The Westminster Confession of Faith: An Authentic Modern Version (Signal Mountain: The Summertown Co., 1979) においては以下のようになっている。
”It is lawful for Christians to accept and execute offices of civil authority when that is their calling. In the administration of such offices they should take care to support true religion, justice, and peace, according to the beneficial laws of each government, and in so doing they may lawfully under the New Testament wage war on just and necessary occasions.”
ちなみに、第23章のタイトルは、”Of the Civil Magistrate” 「国家的為政者について」であり、4節からなるこの章の力点が戦争にあるのではないことが明らかである。
(2)創世記15章16節
(3)出エジプト記22章20節、申命記7章26節
(4)ヨシュア記7章、イザヤ43章28節、エレミヤ書25章9節
(5)個々人の判断に任されるというより、人間の側で判断しなくてはならないというのが主旨である。
(6)合法的とは、文字通り「法にかなう」の意味である。地上の国の市民でありかつ神の国の民でもあるでもあるキリスト者には、カイザルのものはカイザルに・・・・・・そして神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)との教えに従って、「この世の法にかなう」ことと「神の国の律法にかなう」ことの両方の課題がある。信仰告白23:2が言及している「合法的戦争」の場合には、前者すなわち「この世の法」への合法性が主として意識されており、それも文脈から「各国の健全な法律」が前提となっていると思われる。このことからも、国家が健全な憲法を持つことがいかに重要であるかがわかる。
(7)テモテへの手紙第一2章1-2節
(8)厳密に言えば、「非武装・平和主義」である。ここでは自衛のための武装は除外して考えてる。世界の大部分の国は、「武装・平和主義」と言える。国家間の紛争解決の最終の手段に武力を行使するか否かが、その分かれ道となっている。最近の憲法「改正」論議は、「非武装・平和主義」を「武装・平和主義」の国家に変質させようとするのが中心課題である。
(9)日本国憲法第二章「戦争の放棄」は次のようになっている。
[戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認]
第九条(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
参考資料
見出しの後の数字は、本文の箇所を示す。
聖絶 1(1)
へブル語の herem およびその語群によって表される概念を指す。新改訳聖書は、この概念を表すため「聖絶」という用語を造った。この語は、「いけにえ」とはなり得ない物あるいは人を、全く神のものとして献げる行為を表すために用いられる(レビ27:28-29)。特に、そのように献げられたものが、元に戻せないという側面が強調されている。聖絶の対象には、人の場合もあり得る。人の場合というのは、偶像礼拝者であるが(出22:20)、申命記は、聖絶をカナンの七つの民に適応している(申命記7章)。しかし、聖絶は戦争とかかわるが、旧約聖書に描かれるさまざまな戦いの一形態である。それゆえ、聖絶をもって旧約時代の戦争を代表するかのごとく語ることは妥当ではない。
義戦論 1(2)
アウグスティヌスは、『神の国』その他の著作において、聖書では戦争が否認されておらず、キリスト教は正義の戦争を禁止していないことを説いた。彼によると、意図において平和を獲得するための手段として遂行され、また敵対する側の不正を正すものであるなら、その戦争は正当化される。正義の戦争には、侵略者の不正行為を防止し、それを罰することを狙いとする防衛戦争と、不正に侵されたものを回復し、不正に奪われたものを取り戻す攻撃的戦争とがある。
義戦論は、中世神学の集大成者であるトマス・アクイナスによって、最も明確な形で整理された。彼は、その大著『神学大全』の中の「戦争論」の項で、戦争が認められる条件として、戦争を行う正当な権限をもつ君主が宣言したものであること、相手方に攻撃されるだけの「過誤」があり、戦争の「正しい理由」(just causa)が存すること、交戦者が善を進め、悪を避けるという正しい意図を有すること、の三点をあげている。
三十年戦争 1(3)
「三十年戦争」は、16世紀の宗教改革以後、ドイツ帝国内で戦われたヨーロッパ最大の悲惨な宗教戦争である。1648年のウェストファリア条約で、ドイツ帝国内におけるカトリックとプロテスタント(ルター派とカルヴァン派)の完全な同権と、領邦君主が自己の宗旨を領民に強制する権利とが認められた。
現代戦争 1(5)
第二次世界大戦の末期にもすでに、非戦闘員の大量無差別殺戮があった。戦争に勝つために手段を選ばなくなった。以来、50年余世界には大小の戦争があり、ハイテク兵器が異常に発達し、人間の殺され方も悲惨を極めつつある。武器所有も国家の独占でなくなり、テロが日常化している。今や勝者・敗者の区別がなくなり、戦場体験者の心の深い傷は癒されぬままである。ベトナム戦争帰還兵は無惨な大量殺戮の現場に居合わせ精神的なショックが癒やされぬまま現在に至っている。枯れ葉作戦は奇形児を生みだし、ボール爆弾の破片はむごたらしい傷口をつくる。湾岸戦争で大量に使われた劣化ウラン弾の放射能は帰還兵の肉体にも忍び込み新しい戦争後遺症問題が生じている。戦争は大規模難民を作りだし、新しい戦争の火種となる。
軍事的性奴隷 3序
従軍慰安婦問題を取り扱った国連人権委員会は、従軍慰安婦を「軍事的性奴隷」という言葉で表現している。英語でもcomfort woman(慰安婦)の表現からsex slave(性の奴隷)という表現に統一されている。
戦争犯罪行為 3序
戦争犯罪行為を分類すると、①非戦闘員の虐殺、②毒ガス・細菌戦、③連合軍捕虜・民間人・虐殺・虐待、④性暴力、軍事的性奴隷、⑤戦時体制下の植民地の圧政、⑥占領地での圧政、⑦自国民に対する犯罪などである。
靖国神社国営化問題 3序
1969年に国会提出された靖国神社法案は、幻の法案として葬り去られたが、靖国神社を再び国家の手に取り戻そうとする動きはますます強くなっている。これらの運動の推進体は、遺家族議員協議会、英霊にこたえる議員協議会、みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会、英霊にこたえる会、日本を守る国民会議、「明るい日本」国会議員連盟などである。この運動の成果として「元号法」制定、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」閣議決定、地方議会での靖国神社公式参拝意見書採択・戦没者への感謝決議、靖国神社公式参拝合憲の新政府見解の引き出し、などである。現政府の見解は、公用車を使わず、玉串料は公費から出さず、一礼方式の参拝なら合憲としている。 しかし、1985年の中曽根首相の参拝以来、中国・韓国等の抗議にあって参拝しなかったが1996年7月29日に橋本首相が参拝し、中国・韓国の抗議が続いている。
三教会同 3(1)
日露戦争に勝利した日本ではあったが、その後始末のポーツマス講和に反対する日比谷暴動、アメリカの排日運動、韓国の抗日運動、足尾・別子銅山暴動、赤旗事件、伊藤博文の暗殺、大逆事件などが続出した。このような社会状況下、1912年2月、内務次官床次(トコナミ)竹二郎は神道・仏教・キリスト教の代表者と内務大臣原敬ら閣僚四名、各省次官五名、内務省各局長、陸軍省武官などとの会合をセットした。床次の意図は「宗教と国家の結合を図り、宗教をして更に権威あらしめ、国民一般に宗教を重んじるの気風を興さしめんことを要す」るにあった。キリスト教界からは本田庸一ら七名が参加している。翌日三教代表は以下のような宗教界の決議案を発表した。
「一、吾等ハ各々ソノ教義ヲ発揮シ 皇運ヲ扶翼シ益々国民道徳ノ振興ヲ図ランコトヲ期ス
一、吾等ハ当局者ガ宗教ヲ尊重シ政治宗教及教育ノ間ヲ融和シ国運ノ伸張ニ資セラレンコトヲ望ム」
内村鑑三不敬事件 3(1)
1891年1月9日、第一高等中学校は教育勅語奉読式を行ったが、教員の内村鑑三は勅語への最敬礼(礼拝的低頭)をせず、ちょっと頭を下げただけであった。このことが、天皇・国体をなみする大不敬事件であるとして社会問題となった。「不敬」「無頼漢」「不埒な教師」「不忠の臣」「薄忠の輩」「乱臣賊子」「不礼不遜の者」「大不敬者」「不敬賊臣」「外教の奴隷不敬漢内村鑑三」等が事件を報じた諸新聞の見出しで、本文とともに悪罵に満ちていた。
当初は内村個人に向けられた報道姿勢は、キリスト者、キリスト教に向けられ、キリスト教はわが国の国体に合致せず、わが国の安寧秩序を妨害する邪教であるという論調に変わっていった。キリスト教界も黙してはいず、この問題に対して最もラディカルな戦闘的・批判的態度、見解を維持したのは植村正久であった。 社説に「不敬罪と基督教」を載せた『福音週報』は発行禁止処分を受けた。
「教育と宗教の衝突」論争 3(1)
1893年4月、井上哲次郎は著書『教育と宗教の衝突』を発表した。山路愛山はその著書『現代日本教会史』(1905年)でこのときの状況を以下のように書き残している。「大学教授たり、独逸仕込みの学者たりてふ氏の名声と、国民的反動思想の潮流とは此論文に虎の翼を加えたり。教育家の大部分は此論文を以て恰も金科玉条の如くに見なし、盛に反基督教の感情を焚やしたり」
井上の論点は次の四点である。(1) 教育勅語は国家主義、キリスト教は世界主義。(2) キリスト教は忠孝を重んじない平等主義。(3) キリスト教は現在をいやしめ未来を重んずる出世間的・非現実的。(4) キリスト教の愛は無差別的博愛。
キリスト教界からの反論も盛んで、特に植村正久、柏木義円、大西祝の発言は「最も勇敢にまた的確につくべきところをついた白眉の論文といってよい。」(生松敬三、1965)と評されている。
自衛隊 3(2)
国家に自衛権があることは疑うことができない。それを保障する一つとして軍隊の存在が認められている。各国は仮想敵国を作り、それを打ち破るに足る軍拡競争に走る。民生より軍事優先の政治形態に暴走し始めた時点で国家は自国を侵し始めたといえる。更にエスカレートして隣国への侵略となる。国家に自衛権があると言うのは、国民が平和に過ごせるよう国民が政治にその権利を与え、国民もその限りにおいて協力をするという限定がついている。国民の生活を圧迫し、危険と被害を与えるような軍隊があるとすれば、国民の期待に背く存在でしかない。
日本の自衛隊は、アメリカの極東戦略の方針転換によって発足した。当初は警察予備隊、保安隊、海上警備隊などといっていた。自衛権行使の一つとして軍事力保持を国民が要求した上での発足ではなく、それまでの憲法第九条の解釈を変更した上での発足であった。
日本は個別的自衛権を保障するために日米安全保障条約を結び、日本の防衛を自衛隊と在日米軍とが協同して当たることになっている。この軍事行動は日本の自衛権行使となるから合憲であるとされている。現在安保条約による軍事行動の指針(ガイドライン)の見直しが進められているが、これは集団的安全保障体制に自衛隊が組み込まれるものである。これは憲法の前文と第九条とに明らかに矛盾する。この体制下では、軍事同盟国の一方が戦争を始めたら、その戦争の性格如何にかかわらず、戦争に加担しなければならない。それには自衛と無関係な戦争も含まれる。
靖国神社 3(3)
1869年(明治2年)東京都千代田区九段坂上に東京招魂社が創建される。維新前後の国内戦争で新政府軍の戦死者だけを祀るための神道式の社(ヤシロ)。徳川幕府の国教が仏教であったことに対抗する意味が「神道式」に込められている。1979年に別格官幣社靖国神社と改称、1952年宗教法人靖国神社となる。明治維新の対外戦争など国事に殉じた者250余万の「霊」を合祀。戦時中は侵略戦争の精神的支柱で、陸海軍が管理した神社であった。
日清戦争 3(3)
1894~95年日本と清国との間に行われた戦争で、朝鮮の宗主国である清国から宗主権を奪うことをねらったもの。朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)に清国が出兵したのに対し、日本も居留民保護などを名目に出兵、1894年7月の豊島沖海戦となり、同8月1日宣戦。日本は平壌・黄海・大連などで勝利し、翌1895年4月講和条約を締結。
日露戦争 3(3)
1904~05年日本が帝政ロシアと満州・朝鮮の制覇を争った戦争。1904年2月国交断絶以来、同年8月以降の旅順攻囲、05年3月の奉天大会戦、同年5月の日本海海戦などでの日本の勝利を経て同年9月アメリカ大統領ルーズヴェルトの斡旋によりポーツマスにおいて講和条約成立。
日中戦争 3(3)
1937年7月7日、盧溝橋事件を契機とする日本の中国侵略戦争。十五年戦争の第二段階。日本は1938年中に主な都市、鉄道の沿線を攻略、中国は重慶に遷都して抗戦、長期戦化し、1941年12月太平洋戦争に発展。
太平洋戦争 3(3)
第二次世界大戦のうち、主として太平洋方面における日本とアメリカ・イギリス・オランダ等の連合国軍との戦争。十五年戦争の第三段階で、中国戦線をも含む。日中戦争の長期化と日本の南方進出が連合国との摩擦を深め、種々外交交渉が続けられたが、1941年12月8日、日本のハワイ真珠湾攻撃によって開戦。戦争初期、日本軍は優勢であったが、1942年半ば頃から連合軍が反攻に転じ、ミッドウェー・ガダルカナル・サイパン・硫黄島・沖縄本島等において日本軍は致命的打撃を受け、本土空襲、原子爆弾投下、ソ連参戦に及び、1945年8月14日連合国のポツダム宣言を受諾、9月2日無条件降伏文書に調印。戦争中日本では大東亜戦争と公称。
戦犯(戦争犯罪人の略) 3(3)
日本はポツダム宣言を無条件に受託したが、その宣言中に「戦争犯罪人の処罰」が含まれていた。戦争犯罪人は「平和にたいする罪」(侵略戦争開始の責任)、「人道にたいする罪」(非人道的な行為の責任)を問われた。A級戦犯は平和に対する罪、B級戦犯は通例の戦争犯罪、C級戦犯は人道に対する罪(一般人民にたいする大量殺人・奴隷化、その他の非人道的行為)である。A級戦犯として処刑された東条首相らは「昭和殉難者」として靖国神社に合祀されている。処刑された旧巣鴨刑務所跡に記念碑が建てられている。
英霊 3(3)
元来、すぐれた人の「霊魂」であるが、戦争中は専ら戦死者の「霊」にいう。戦後一時期死語になっていたが、日本の独立後、英霊顕彰が声高に叫ばれるようになった。
護国神社 3(3)
終戦まで各県にあり県出身の戦没者を祀ったのが官営の護国神社、戦後も同じ神社名で残り、天皇の参拝が継続されている。靖国神社の地方版であるが、管轄は宗教法人神社本庁。戦時中、地方町村単位に公営の忠魂碑・忠霊塔などが建てられたが、戦後、地方公共団体との関係が絶ち切れず、違憲裁判が続発している。
公式参拝 3(4)
靖国神社法案が廃案になったことは、靖国神社の国営化に失敗したことである。しかし靖国推進派は、天皇・首相・外国賓客の靖国神社への公式参拝推進に方向変換をした。公式参拝が慣例化すれば、必然的に靖国神社は公的な存在となり、戦没者は顕彰の対象となり、かつての戦争が国家によって肯定されることになる。
象徴天皇制 3(4)
戦前の大日本国帝国憲法では、天皇は神的絶対的な権能の保持者として規定されていた。すなわち、元首であり、三権の長であり、軍の統帥者であり、宗教的な権威者として日本国を支配していた。この旧天皇制の規範に旧皇室典範があり、これは憲法の上位に置かれていた。
戦後の日本国憲法では、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定されている。天皇には政治的権能はなく、憲法に規定された国事行為だけが許されている。象徴天皇制は戦前の神権天皇制との断絶に近い格差を強調するため通常使用される。天皇制を存続させ、政治的権力を奪うために「象徴」なる用語が採用された。
「人間宣言」 3(4)
1946年1月1日、天皇は「年頭の詔書」を発表した。この内容に「神格天皇」を否定した部分があり、この詔書を通常「人間宣言」と呼んでいる。該当部分を次に引用する。
「朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神(アキツミカミ)とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず。」
この「年頭の詔書」の書き出しは明治天皇の「五箇条の御誓文」の引用に始まる。
五箇条の御誓文(ゴセイモン) 3(4)
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ。
一 上下(ショウカ)心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行ウベシ。
一 官武一途庶民ニ至ル迄各々其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス。
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基ヅクベシ。
一 知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ。
我国未曾有ノ変革ヲ為サントシ、朕躬ヲ以テ衆ニ先ニジ、天地神明ニ誓ヒ、大イニ斯(コノ)国是ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ。
明治新政府の発足に際し、明治天皇は「天地神明」に誓い、「臣民」の協力を命じていた。敗戦後の、いわゆる「人間宣言」の原稿に「誓文」をつけ加えることを強く推したのが昭和天皇であった。
「おぼしめし」 3(4)
「思し召し」とも書く。通常「思う」の尊敬語で、高貴な方の発言に使われる。ここでは明治天皇の発言のこと。日本は伝統的に、政治支配構造の変革は支配層自身の、「思し召し」によってなされてきた、との歴史観が日本人の間に根強く残っている。人民の政治的な権利は人民によって勝ち取るものでなく、「思し召し」によって与えられるものであると教え込まされてきた。日本の民主主義のルーツは明治天皇によって敷かれ、戦後の民主主義もこの「思し召し」の線に沿うものであるとの昭和天皇の思いが「人間宣言」に込められている。
国連平和維持活動(PKO)協力法 3(5)
PKOは Peace Keeping Operations の略で、字義通り訳せば平和維持作戦である。これは東西両大国が対立していた時代の産物で、国連憲章の規定にない軍事行動である。
国連憲章は、二度にわたる世界大戦を経験した国々が三度目の大戦を防ぐための取り決めである。平和を乱す国があれば、まず国際的に経済的・外交的な制裁を加え、それでも効果がない場合武力制裁をも辞さない取り決めである。この制裁の決定権は安全保障理事国にあった。ただし旧連合国の五大国は常任理事国として、制裁決定に従わない拒否権をもっていた。したがって、拒否権をもつ国の軍事力行使に、国際的に制裁を加えることができなかった。このため憲章の精神が生かされず、大国の代理戦争ともいうべき大規模戦争が数多く発生した。
PKOはこのような状況、憲章の不備を補うためにできたものである。PKO参加国は、軍事小国で、紛争国に対して中立的な立場の国であって、紛争当事国の同意を得て後行動が許された。これがPKO参加3原則と言われたものである。
イラクのクウェート進入時、国連安保理事国は経済・外交制裁を決議するとともに、多国籍軍をイラク周辺に派遣した。二段構えの制裁が実質的に同時進行したが、これは国連憲章の変則的な適用であった。湾岸戦争の戦費として日本政府は米国に130億ドルを供与したが、本来国連の名による行動であるからには資金調達も国連がすべきことであった。戦後、米国を含むPKO軍がイラク周辺に配置されたが、これは従来のPKOの原則から大きくはずれた軍事行動であった。
1996年6月15日、国連平和維持活動(PKO)協力法が日本の国会で成立した。これに基づき自衛隊員がPKO要員と身分を変え、カンボジア紛争国、軍事的対立のゴラン高原等に派兵された。