「長老教会って、どんな教会?」(3)

 これまでお話ししましたように、「長老政治」は教会政治の一つの形態です。これから、他の教会政治の形態との区別という観点からではなく、長老政 治の特徴についてお話ししていきたいと思います。しかし、そのことについてお話しする前に、そもそも教会政治は必要なのかということについて、何回かに分 けてお話ししたいと思います。
 私たちは「日本長老教会」を名乗っておりますが、これは教会政治において長老制を採用していることを前面に押し出している名称です。そうであれば、日本 長老教会においては教会政治は重く考えられており、その必要性に関しては議論するまでもないことであると思われます。しかし、実際には、教会政治の必要性 に関して、十分な理解が行き渡っていない可能性があります。それで、改めて教会政治の必要性について考えておきたいと思うのです。
 教会政治に関しては、これを否定する立場があります。原理的に教会政治を否定する立場を取るのは、クェーカー教徒、プリモス・ブレザレンなどです。この 立場に立っている人々は、教会を組織化することは、教会を腐敗させ、キリスト教本来の精神を失わせる結果となると考えます。組織化された教会においては、 神から与えられる「賜物」が否定され、人間が制度化した職務がそれに取って代ってしまい、聖霊による生きた交わりが失われてしまうと考えるのです。公的な 礼拝は、各自が聖霊の「うながし」に従うことによってなされるとされています。
 おそらく、日本長老教会の会員の皆さんはこのような考え方はしないと思います。しかし、教会政治を否定的に考えることにつながる、別の問題があるかもし れません。それは、 教会政治に対する無関心という問題です。先ほどの教会政治を否定する立場を取る方々は、意識的に、また、原理的にその立場を取っています。しかし、教会政 治に対する無関心にはそのような自覚はありません。原理的なところできちんと考えて、無関心という立場を取っているわけではないのです。何となく、教会政 治は信仰の在り方とは関係ないと考えているということでしょう。
 教会政治に対する無関心にはいろいろな原因があると思われますが、深いところでは、その人の信仰の在り方、信仰の理解と関わっています。たとえば、救い を、単に個人の魂の救済であると捉え、信仰を個人的なことと捉えている人々の間では、教会を便宜的な集いと捉える傾向があります。教会の集いによって、個 人個人の信仰が励まされ、強められるということが教会の存在の目的であると考えられるのです。そのため、教会政治に対する関心は低くなる傾向にあります。 教会政治は、組織運営のことであり、それは関係者に任せておこうということになります。
 教会の集いによって個人個人の信仰が励まされ強められることは確かです。しかし、そのこと自体が教会の存在の目的ではありません。これは、私たちの信仰 の理解にとってとても大切なことですが、キリストのからだである教会は、神さまの創造の御業とその回復としての救済の御業のご計画の中に、中心的な使命を 委ねられた契約共同体として存在しています。個人個人の信仰が励まされ強化されることは、教会がその存在の意味と目的にそって存在しているなら、必ず、そ の結果として生まれてくるものです。
 また、信仰をお互いに励まし合い、強化する必要がなくなるであろう、キリストの再臨後の新しい天と地においても、キリストのからだである教会は、意味あるもの、目的を持つものとして、存在し続けます。
 教会政治は、このキリストのからだである教会の存在の目的としての、主から委ねられている歴史的な使命の実現に関わるものです。

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