「長老教会って、どんな教会?」(5)

前回は、エペソ人への手紙一章二〇節-二三節に記されている御言葉に基づいて、キリストのからだである教会は栄光の キリストのご臨在によって満たされていること、そして、そのような教会の存在は、天地創造の初めに神さまが神のかたちにお造りになった人に委ねられた「文 化命令」(歴史と文化を造る使命)を実現することであるということをお話ししました。また、それは、エペソ人への手紙一章の流れの中では、九節、一〇節に 記されている、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現の第一歩としての意味をもっているということもお話ししました。

これは、キリストのからだである教会の存在には「宇宙論的な」意味があるということを示しています。

同じことは、ローマ人への手紙八章一九節-二一節に、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されています。

ここでは「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいる」と言われています。このことの背景は、 天地創造の初めに神さまが人を神のかたちにお造りになって、これに「文化命令」をお委ねになったことがあります。これによって、神さまがお造りになったす べてのものが神のかたちに造られた人との一体性のうちにおかれました。このことは創世記の記事からは分かりにくいのですが、詩編八篇六節に、

あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていることから分かります。

このように、神のかたちに造られた人との一体性にあるものとされた被造物は、人が造り主である神さまに対して罪を犯 して、御前に堕落してしまったことによって、人との一体にあるものとして「虚無に服した」と考えられます。ということは、もし、神のかたちに造られた人が 造り主である神さまとの本来の関係にあるものとして回復されるなら、被造物も、その回復された人との一体において、本来の状態に回復されるということにな ります。

ローマ人への手紙八章の流れでは、被造物がその出現を待ち望んでいる「神の子どもたち」は、ただ単に、天地創造の初 めに神のかたちに造られた状態に回復された人のことではありません。十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとしての 栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられた栄光のキリストと一つに結び合わされて、その復活のいのちによって新しく生まれて神の子どもとされた主 の民のことです。神の子どもたちは終りの日に再臨される栄光のキリストのお働きによって栄光のうちによみがえるようになります。

ですから「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」ということは、 天地創造の御業によって造り出された最初の状態に回復されるのではなく、その完成の状態に至ることを意味しています。言うまでもなく、それは、終りの日に 再臨される栄光のキリストによる再創造の御業によって造り出される「新しい天と新しい地」(黙示録二一章、二二章)として実現する世界のことを指していま す。この「新しい天と新しい地」において完成する歴史は、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から注いでくださった御霊のお働きによって、すでに始まっ ています。その中心にあるのが、栄光のキリストのからだとしての教会の存在です。

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