「長老教会って、どんな教会?」(8)

  今回から、長老教会を特徴づけている長老制を意識してのことですが、教会政治の理念についてお話しします。これについては、基本的な理念と、それに基づく一般的な理念に分けて考えたいと思います。
  教会政治の基本的な理念として二つのことをお話ししたいと思います。今回はその第一のことを取り上げます。それは、「栄光のキリストが教会のかしらであり、教会はキリストのからだである。」ということです。
  このことは、特に、エペソ人への手紙に示されていることです。1章22節、23節には、

「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

と記されています。ここで「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」と言われている方は、私たちご自身の民のために十字架にかかって、罪 をまったく贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださって、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストです。
  ここでは、この栄光のキリストが「いっさいのものの上に立つかしら」であると言われていて、教会のかしらであるいうことは明示されていません。これは とても大切なことですが、このことについては、すでに、第4回目のお話で取り上げましたので、改めて取り上げることはいたしません。
  キリストが教会のかしらであられるということは、夫と妻の関係がキリストと教会の関係を映し出すものであること(5章32節)を踏まえて記された5章23節において明示されています。
  教会を最終的に治める方は、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストです。それで、教会政治は、かしらであるキリストがご自身のからだである教会を治めてくださることを映し出すものでなければなりません。
  この点で注目したいのは、5章25節ー27節のみことばです。そこには

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの 何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」

と記されています。
  ここでは、イエス・キリストが教会を愛して、そのためにご自身をささげられたことの目的が「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるため」であると言われています。
  ここで「聖く傷のない」ということばは、1章4節において

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」

と言われているときの「聖く、傷のない」と同じことばです。また、思想的にも、この二つのことはつながっています。永遠の聖定において、父なる神さ まが私たちをキリストにあってお選びになり「御前で聖く、傷のない者にしようと」されたことが、歴史の中で、イエス・キリストが教会を愛して、そのために ご自身をささげられたことにおいて実現しているということです。
  教会政治には、この永遠の聖定における父なる神さまのみこころが踏まえられ、贖いの御業の歴史におけるイエス・キリストの愛が映し出されなければなりません。

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