「長老教会って、どんな教会?」(9)

  前回から、教会政治の基本的な理念として考えられる二つのことのうちの一つのことをお話ししています。それは、「栄光のキリストが教会のかしら であり、教会はキリストのからだである。」ということです。それで、教会を最終的に治めておられる方は、栄光のキリストご自身です。したがって、教会政治 は、かしらであるキリストの支配を表現するものであるとともに、教会を治めておられるキリストを映し出すものでなければなりません。
  言うまでもなく、「栄光のキリスト」とは、十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださり、父なる神さまの右の座に 着座されたイエス・キリストのことです。栄光のキリストはご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちを罪と死の力から解放くださり、私たちを新 しく生まれさせて、永遠のいのちで生きるものとしてくださるために、父なる神さまの右の座に着座されて、ご自身のからだなる教会を治めてくださっていま す。教会政治は、このイエス・キリストのみこころを実現するために、イエス・キリストの御名によってなされます。
  このこととのかかわりで、これから何回かにわたりますが、教会のかしらであられるイエス・キリストの権威の特質についてみことばが示すところを見てみましょう。
  ヨハネの福音書10章10節、11節には、

「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」

というイエス・キリストの教えが記されています。実際に、「良い牧者」であられるイエス・キリストは私たちが永遠のいのち(復活のいのち)に生きるようになるために十字架にかかって死んで、よみがえってくださいました。
  だれがイエス・キリストを殺したのかということですが、ペンテコステの日にエルサレムに集っていたユダヤ人に対してなされた、ペテロの「説教」を記している使徒の働き2章23節には、

「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」

と記されています。その意味では、イエス・キリストはユダヤ人によって十字架につけられ、殺されたと言うことができます。
  今お話ししていることとのかかわりで大切なことは、広く知られていますように、ユダヤ人たちは「政治的なメシヤ」を期待していたということです。その 場合の、メシヤの権威はこの世の権威の序列のいちばん高い所にあります。それは血肉の力によって裏付けられ、支えられている権威です。メシヤはその権威に よって、その当時であれば、ローマ帝国を制圧し、神さまの律法にしたがって全世界を治めることによって、理想的な世界が到来するということが期待されてい ました。
  しかし、イエス・キリストはそのようなメシヤではありませんでした。それで、いわば「にせメシヤ」であるということで、殺されてしまったのです。
  イエス・キリストご自身が、「わたしの国はこの世のものではありません。(ヨハネ18:36、参照15:19、17:14-16)」とあかししておら れます。イエス・キリストの御国がこの世に存在していないということではなく、この世の権力の序列に属していないということです。
  最終的にイエス・キリストが治めておられる教会の政治における権威も、この世の権威と本質的に違うものです。それがどのようなものであるかにつきましては、改めてお話しします。

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