「長老教会って、どんな教会?」(10)

 前回は、教会のかしらであるイエス・キリストの権威の特質についてのお話を始めました。今回もそのお話を続けます。
 ヨハネの福音書10章の18節には、

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父ら受けたのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。これは前回も取り上げたイエス・キリストが「良い牧者」としてご自身の民のためにいのちをお捨てになったことに関する教えの一部です。ここで、イエス・キリストはご自身の権威によって、私たちのためにいのちを捨ててくださったということが明らかにしておられます。ここに、神さまが神のかたちに造られている人間に委ねてくださった権威の本来の姿があります。
 また、弟子たちがイエス・キリストのメシヤとしての権威を誤解して、この世の権威者たちの権威と同質のものと考えていた時のことを記しているマルコの福音書10章42節ー45節には、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。弟子たちは、メシヤの権威は人の上に立って支配することにあると考えていました。当時のローマ帝国も含めて全世界の上に立って支配することであると考えていたわけです。しかし、イエス・キリストは、それは罪によって歪められたこの世の支配者たちの権威であると教えられました。そして、神の御国における権威は、

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

というみことばに示されていますように、仕えることにおいて発揮される権威であると教えられました。
 イエス・キリストはただそのように教えられただけではありません。

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

と言われましたように、ご自身が私たち契約の民のためにいのちをお捨てになりました。先ほどのヨハネの福音書10章の18節の教えに示されているように、そのことにおいて、イエス・キリストはご自身の権威を発揮されたのです。
 このイエス・キリストにおいて、神のかたちに造られている人間に委ねられている権威の本来の姿が回復されています。そして、イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖われた私たち主の契約の民も、この本来の権威を発揮するようにと召されています。それは、どこよりも、キリストのからだである教会において、私たちが互いに愛し合い、仕え合うことにおいて実現し、あかしされることです。

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